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自転車世界旅2 VOL:4

3月21日~3月27日

溝口さんのアジア旅行。3週目はベトナムからラオスに入国するが、トラブルが発生!!
無事タイまで辿り着けるのか?

3月21日
ベトナム クァンソン → ラオス Viang Xai(ヴィエンサイ)
102km

「今度こそ、ラオスへ渡るぞ!」先日別のラオスへの国境で追い返されてしまった苦い思い出が蘇る。ベトナムのタンホアとラオスのサムヌアを結ぶ国境線は川の中腹にある。国境手前の街でご飯を食べていると、ラオスからやってきたというイギリス人と出会う。移動手段は違えど、お互いに旅行者だ。旅の話で盛り上がる。そこで、1つ面白い提案をしてみた。お互いに双方の国に渡るのだから、通貨を交換しようと交渉を持ちかけてみた。「それは良い案だ!」とベトナムのドンとラオスのキープの為替を調べて交換。実際にラオスに入国してから最初の街ヴィエンサイまで60km弱はATMが見当たらなかった。(しかもその街のATMは壊れていた)このやりとりのおかげで命拾いした。

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イギリス人のグループと通貨の交換。

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今にも崩れそうな橋を恐る恐る渡る。さらに家畜が多く、ぶつからないように気を付けながら走る。

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ラオス式のステーキ。

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映画でしか見たことないようなワンシーンがありふれている。一台の車が通ると、しばらく砂埃で何も見えない。

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子供たちは私を見かけると「ハロー」と手を振ってはしゃぐ。そんな彼らとハイタッチ交わしながら走ってゆく。

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日が暮れていく、気温が一気に下がっていく。

3月22日
ラオス ヴィエンサイ → Muang Peun (ムアンペウ)
88km

ラオスは想像以上に過酷だった。ベトナムとの国境を通過すると同時に道路は狭まり、砂利とくぼみの難しいコンディションに変化する。そして、アジアを走って実感したことは、トンネルが無い。峠では確実に頂上まで道路が続いており、800m~1,500mの盆地を囲む山々の上を走らされる。自転車乗りとしての能力を試されている。必死で登った後に待つのは長い下りだ。ブレーキを精一杯握りしめて、ガードレールの無い砂利道を降りていく。さらに内陸国なので一日の寒暖差が激しい。日中は35度まで上がり、日が暮れると15度まで下がる。
そんな現状に打ちのめされそうな私は思うように進めず、深夜まで走り続けていた。夜の11時、人に尋ね、在るはずのゲストハウスを求めてさ迷っていたら、「泊まっていきな。」と声をかけられた。ラオスでは無断で外国人を自宅に泊めることが禁止されていると聞いたことがある。そのためかお役所の人と思われる人が来たが、旅の話で盛り上がり、握手をして別れた。土の床に座って米を手で食べる。どの民家も家畜を飼っており、とても賑やか。パチパチと薪が燃える音が心地心好かった。

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泊めてくれたテムさん夫婦。

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初めて来た場所なのに、どこか懐かしさを感じる風景である。腹痛に苦しみながら撮影した数少ない写真の一つ。

3月23日
ラオス ムアンペウ → PHOU LAO(ポーウラオ)
35km

夜明け前、激しい腹痛と吐き気で目が覚める。飛び起きてトイレに駆け込む。この感じ…ベトナムで経験した食中毒だ。朝は泊めてくれたテムさんに心配されぬように装って、感謝を告げて出発。だが、手を振ってさよならした彼らが見えなくなったあと、すぐに路肩に倒れこんだ。嘔吐と下痢を繰り返して、茂みの中で妙な寒気を感じていた。 民家もない、人も通らない完全な孤独で、頼りになるのは自分と自転車だけだった。走らなければ、と思うものの腹痛にやられてすぐに止まってしまう。3時間経って走った距離はたったの3km。私の弱さを実感した。
こんな状況でも私が望んだ結果だった。助けは求められない。助けを乞うことは私の自尊心が許さない。山に囲まれて、他人が介入する余地の無いこの状況では、私は絶対でなければならない。自転車から降りることは許されないのだ。一人で十分だ、と自分に思い聞かせていた。次の村を目指して踏み込み、8時間かけて35kmを走った。

まるで歩くような速度だった。

3月24日
ラオス ポーウラオ → ヴィエンチャン
バス移動

「無理だ。失敗だ。」そんな言葉がゲストハウスのベッドで呻く私の脳裏に散らつく。アジアを自転車で走ることは、理解の範疇を超えていた。同じゲストハウスに泊まった警察官たちに、バスを使った方が良いと諭されたが、それを拒むほどの気力がなかった。
「ヴィエンチャンまでバスで18時間。ラオスの山々は、「所詮お前はその程度だ」と嘲笑うようにそびえていた。時間の制約があるなかで、私には不可能だったと認めざるを得ない。自転車旅にいたっては、出来ると信じたことに不可能は無い。それが信念だ。私が一人で築いてきたと思っていた自信はただのガラクタの山だったのかもしれない。今まで応援してくれた人たちに、情けなくて申し訳ない。今まで道端で子供達と笑顔でハイタッチを交わしながら走っていたのに、バスではそれが出来ない無力感に駆られ、腹痛による呻き声を殺しながら自分の弱さを思い知った。

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ゲストハウスでお世話になった警察官の方々。お腹を抱えながらコープチャイ、ありがとう。

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自転車はバスの屋根へ。

3月25日
ラオス ヴィエンチャン → タイ ウドーンターニー
150km

こんなはずではなかった。バスで連れてこられた場所は、本来なら自力で到達したかった。これまで散々私を阻んできた山は見えず、辺りは拍子抜けしてしまうほどまっ平らだ。
ヴィエンチャンはラオスの首都だ。東南アジア最長のメコン川に面しており、その対岸はタイだ。気候はガラッと変わり、昼には40度まで達する。今が一番暑い時期だそうだ。深呼吸すると喉が火傷しそうな暑さだが、食中毒が治まりつつあり、自転車で走ることができた。国境であるメコン川に架かるタイ=ラオス友好橋を渡る。目的地のバンコクまで残り700km。この700kmは何としても完走するんだ、と決意する。
体調が良くなり、心に余裕が生まれる。ずっと一人で戦っていると思っていた。でも振り返れば、出会って助けてくれた人たち、応援してくれる人たち、友人、家族、いろんな人の協力で成り立っている。一人じゃないから生きていけるのだ。

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ヴィエンチャンのパトゥーサイ。パリの凱旋門の面影があるのも、ラオスはフランスの植民地だった背景がある。

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朝日に輝くタートルアン寺院。

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涅槃像もタイ周辺ではよく見られる。

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灼熱の大地では飲み物は必要不可欠。ココアを差し出してくれる優しいお姉さん。

3月26日
タイ ウドーンターニー → コーンケーン
153km

食中毒が治った。何が原因だったのだろうか。ふと使っていた正露丸を見てみる。使用期限が2013年だった。親に渡されたものだ。まさかな…

タイ、ついに私が中学時代を過ごした国に入った。あの頃と同じ空気、同じ空。しかし今回は、自転車を手に入れて、自由に動くことができる。何も出来なかったあの頃とは違うのだと証明したい。

「微笑みの国」タイはそう呼ばれていることをご存知だろうか。私が中学の時は微笑みの印象はあまり無かったが、それは自分自身が微笑んでいなかったからだった。
私から微笑みかければ、必ず笑顔が帰ってくる。タイの人たちは照り付ける猛暑の太陽に負けず、眩しい笑顔を送ってくれる。まさしく微笑みに溢れていた。

バンコクまでは平坦だ。道は完全に舗装されて、道幅は広い。さらに東風のモンスーン(季節風)に背中を押され、快適な旅路だ。距離は長いが、毎日少しずつ進んでいこう。

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いよいよタイに入国。5年ぶりだ。猛烈なモンスーン(季節風)が吹き付ける。

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度々見かける寺院に寄っては小休憩。寺院の中は涼しくて落ち着く。

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こちらから微笑んでいけば、ほら。微笑みの国でしょう。

3月27日
タイ コーンケーン → ナコーンラーチャシーマ
182km

タイは仏教国なので、国内には多数の寺院がある。街で僧侶が歩いている光景は懐かしい。私は旅の道中でよく寺院を訪れてきた。寺院では長ズボンをはかなければならないルールがある。他にも人の頭に触ってはいけないといった、日本では良しとされることも他国ではタブーなことがある。外に出れば外国人だ。郷に入れば郷に従う。彼らの文化に対して、出会う人に対して謙虚であるべきだと考える。私は幸せなことにたくさんの人に応援されてここまで旅をすることができた。それを忘れること無く、常に思慮深く行動する責任がある。

その責任を最後まで全うしなければならない。旅の終わりまであと一週間を切ったこの段階で、私には何が出来るのか。それが今の課題だ。

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金色に輝くプラマハタート コーンケーン。

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道幅は広くて夜も快適に走行できるタイの2号線。

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一緒に食事をした人たち。
バンコクまで車で行くから乗せてってあげると言われたが、それは断った。最後くらい、自力で完走したい。

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立ち寄ったワット サラロイ。

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真っ黒に焼けた私は本当に日本人か?と疑われた。彼女らと寺院を巡った。
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